ぶんぼっぽの日記

よんでくれ

すた丼屋で知った日記の書き方

今日はおなかが空いたので伝説のすた丼屋さんに夕ご飯を食べに行った。最近は地球温暖化の影響か猛暑の連続で、汗だくになりながらお店に入った。少しでも汗だくの自分から意識をそらそうと、youtube プレミアムでダウンロードした藤原麻里奈さんの動画を見てみた。

藤原さんは無駄づくりという活動をしており、役に立たない発明品を作っては世界に発表している不思議な人だ。いつもクールなので、清涼になるかと早速見てみた。今回見たのは日記の書き方という回。

実は彼女のチャンネルを見るのは初めてだ。この回はゲストも出てくる番外編的立ち位置で、絶対に最初に見る回ではない気がするのだが、自分も日記をつけているので気になってしまった。

そんな背景をもつ回なので、藤原さんよりもどちらかというとゲストに出ていた古賀及子さんの話がメインだった。が、その話がなかなかに強烈だった。

念のために行っておくと、強烈とはなにも派手なエピソードというわけではない。古賀さんが話していたことは、古賀さん自身が今まで日記を書いてきた中で編み出した方法論なのだが、アッ、と声が出そうなほど脳みその奥まで入ってきた。

例えばでかい団地から漏れ出る光がぞっとすると同時に心強くもあるという言葉。この感覚をほかの人も持っていると思わなかった。例えば知らない町(なるべく生活感があると、なおよい)を歩いていると、知らない家庭が自分の洗濯物を干していたり、自家用車を車庫に止めていたりする。その家庭に属する人すべてに両親がいて、仲が良かったり悪かったり、一回も会ったことがなかったりする。さかのぼればおじいちゃんとおばあちゃんもいる。子供のころがあり、大人にもなり、老人にもなる。その過程が一切省略されず、緻密に人生が紡がれていく。俺の知らないところで!!

自分の観測範囲外でわらわらと知らない人の人生が進んでいて、一部は自分と交差したりかすったりしているんだなと思うと、言葉にならない怖さがあるのだが、一方で「勝手に進む」自動機械的で心強くもあるのだ。自分は自分の人生だけを心配してよいのだな、と。

自分以外にこの感覚を口にしている人を初めて見て衝撃を受けた。すた丼屋で。

ほかにも日記の書き方について示唆に富んだ話をしている。感想禁止。感想こそ書かなきゃいけないものなんじゃないの。と思うが、古賀さんはただ事実を書こうと言う。なるほど

「今日はおなかが空いたので伝説のすた丼屋さんに夕ご飯を食べに行った。最近は地球温暖化の影響か猛暑の連続で、汗だくになりながらお店に入った。少しでも汗だくの自分から意識をそらそうと、youtube プレミアムでダウンロードした藤原麻里奈さんの動画を見てみた。」

こういうことだろうか。確かに事実を述べているだけでも、雄弁に感じる。映画の感想とかでありがちな「考えさせられた」「狂気を感じた」が大嫌いなのだが、これも事実を書く意識だと避けられるのではないか。そうすれば「考えさせられた」の一分だけでなく、その文章全体が変わるはずだ。

たまたま見ただけの動画だったが、こんなブログまで書いてしまった。みんなも文章、書こう。